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食 先日TVをみていたらほうれんそうを使ったラーメンを食べに行くという企画で女性のタレントとアナウンサー二人組がでていて何気なくみていた。ラーメン屋のご主人がほうれんそうの根の部分を刻んでラーメンにいれていた。するとその二人が「その部分て普通捨てるとこですよね。すごーい。」とコメントして驚いた。それを流しているTV局もすごいなと。あなたたちの親も捨ててたの?え?普通食べるでしょ?とあきれてTVを消した。 その女性タレントは最近野球選手と結婚した。なにを食べさせているのか・・・。 昔から人と食事に行くとその人がどんな家庭で育ったのかわかって幻滅したり、感心したりしていた。それは会社でどんなに地位があっても、カップラーメンが一番おいしいという人には私はなにか悲しい気持ちを持ってしまって、好みの問題だといってしまえばそれまでだけど、食を大切にしない人は情緒が欠乏していたように思う。フキの煮物がすきだと言った若い新入社員の男の子は人の仕事がさりげなく手伝える子だった。お見合いをした40歳を過ぎた歯医者は、たらの芽は木から生えてくることを私にクイズ形式で問題を出してきて私が絶対知らないと思っていたらしく自慢できなくて「僕は最近知ったんだけどね。」の一言でけんかになりそうだった。それは断定できることではないけれど、値段が高いものを食べるとか、どこそこの有名な店がおいしいとかそんなことではない。昔トレンディードラマによく出ていておしゃれでグルメを気取っているタレントが自分で料理を作る番組に出てまずいものしか作れなかった。悲しくなった。むなしいっていうのかな。結構好きだっただけに・・。 今話題の堀えもんやITバブルの中心人物たちは何を食べているだろう。(私は堀えもんのやっていることは嫌いではないですが人間は嫌いです。)おいしいレストランをいくら知っていても小さいころ家庭で出されていた食事はその人を物語る。それは生き方だったり、考え方であったり、いろんな部分にあらわれる。いいか悪いかはそれぞれの人の価値観だけれど、昔、道徳の教科書では悪いこととしてのっていたことをしたものが勝ち組になる世の中になったのかもしれない。 私が幼いころ近所の子達が遊びにくると私の母は手作りのケーキや紅茶を出していた。近所に住んでいたこの地区では有名なデパートの家にみんなで遊びに行くとお水しか出てこなかった。それも言わないと何もでてこなかった。そんな家は珍しかったのでものすごく覚えている。相手に対するやさしさなんかは道徳の教科書では後者はいけないことになる。でもそのデパートはこんな時代でも急成長している。 でも私は安くても手間をかけた料理を食べていた人が、すきだなあ。 (私の親の世代の物がなかった時代の人たちは別です。なにを食べてもおいしいと思えという考えだから。) あるがまま 最近、運をよくする方法とか幸せになるにはなんていう題の本がよく出ています。昔は彼とうまくいくにはとか、ありましたね。今もあるのかな。秋元康さんや瀬戸内寂聴さんとか・・・もっともらしいことを書いてらして、その時は納得して買ってしまうのですが、読み直してみるとなんてことはなくて(ごめんなさい)、実際生きている私たちは読まなくても生きてるじゃない、それだけですごいよなんて思ってしまいます。 幸せ不幸せはひとそれぞれ違っていてなにが幸せかなんて誰にもわかりません。ただ36年間生きてきて20代のころとはまったく違った思いも生まれてきたのでそんなことを書いていきたいと思います。 いろいろありますが、まず20代のころは死というものを私はまったく考えていませんでした。自分が死ぬということは特に・・・。2年程前からでしょうか?死というものを、ものすごくリアルに感じるようになってきました。あー、人生の半分を生きてしまったんだな・・。あと半分なんだ。しかもけっこう無意味に、なにも今まで残せずに・・・。あー、小さいときに描いていた自分とは違うなあなんて・・、後悔とも違う、なにかむなしさという感情が湧いてきたんですね。人の命のはかなさを、演歌なんかに歌われているはかなさみたいなものですかね。 20代のころはまだまだ自分の可能性を根拠もなしに信じて私の場合はもがいていたので、死を考える心の隙間はありませんでした。ものすごくかわいがっていた犬やその子供が次々に亡くなっていったのもこのころです。いまだにその死の大きさ、意味をかかえきれずに苦しんでいますが、大好きだった祖父も亡くなりました。そして結婚もせずに子供をみせてあげられなかった自分をものすごく悔いたんですね。結婚式にも招待できなかったとか・・。まだ予定はないので、祖母にもみせてあげられないのかと思うと胸をしめつけられるような苦しさに襲われます。でもまだ誰でもいいという悟りの境地には達していなくてだめですねえ。そうなったらやっと私の場合は結婚できるのかもしれないです。ただそういう当たり前のことを、みんながやってきた当たり前のことを重視していなかった私がそういう形式的な幸せが大事なのではないか・・。人が従来受け継いできたものにはあたりまえに人としての幸せがあるんではないかと思ったのです。結婚のことばかりでなくいろんなことです。 幸せとは特別に自分の手のとどかないところで探すのではなく身近にあるということなんですね。例えば、周りの人にやさしい言葉をかけるとか、そんな簡単なことです。運をよくするとか、そんな大それたことを考える前に人として生まれたことを考えてよりよく生きることを考えたほうがいいのではないかと、このご時世を見ても強く思うんです。 運をよくする、運命とはなんてこと考えること自体傲慢ですよ。人間の傲慢・・・。 私が気が付かずにいて親からほめられたことがあります。私は、人の悪口を言ったことがないらしいんですね。確かに小さいときからそういう記憶がありません。だれがどうで嫌だとか・・。でも最近口にし出したんですね。人のことを・・・。創価学会のこともそうですが・・。話しているとき初めて親に指摘されました。自分のこと自分で不幸になったんだなと思いました。私が不幸を感じる瞬間です。 あるがまま・・・。これが私という人間をわかってもらうにはもってこいの言葉ですが、最近やっとこれが難しくなってきました。普通の人間になってきたということでしょうか?お年玉ももらってもうれしくなかったという変わり者なので・・・。お金がほしいとか思わなかったんですから・・、でも自分でこの教室をやり始めてお金の意味がわかりました。 運をよくするということではなくて・・、どうやって生きていく?ってことをかいていきますね。 |